中動態の世界 意志と責任の考古学

スピノザは、にもかかわらずなぜわれわれは、「行為は意志を原因とする」と思ってしまうのか、と問うことを怠らない。

 

結果であるはずの意志を原因と取り違えてしまう。そのことを知っていたとしても、そう感じてしまう。「われわれが意志の表れを感じる以前に脳は活動を開始しているのだよ」などと訳知り顔で語る学者もそう感じているし、それを教わった人もそう感じ続ける。

 

「私が自分の手をあげる」とき、私の手があがる。ここに一つの問題が現れる。私が自分の手をあげるという事実から、私の手があがるという事実を差し引いたとき、そこに残るのはいったい何か?

 

そこでは(能動態と中動態の対立においては)主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない。

 

実在する一切のものには、その原因の一つとしての可能態が先行しているはずだ、という見解は、暗々裏に未来を、真正な時制とすることを否定している。すなわち未来は過去の帰結以外のなにものでもない。このような事情の下では、記憶が過去のための器官であるような具合で、意志を未来のための器官とする考えはまったく不必要なものだった。アリストテレスは意志の実在を認識する必要がなかった。つまりギリシア人は、われわれが「行動の原動力」だと考えているものについての「言葉さえもっていない」のだ。

 

言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。

 

このような選択と区別されるべきものとしての意志とは何か?それは過去からの帰結としてある選択の脇に突然現れて、無理やりにそれを過去から切り離そうとする概念である。しかもこの概念は自然とそこに現れてくるのではない。それは呼び出される。

 

意志という絶対的な始まりを想定せずとも、選択という概念ー過去からの帰結であり、また無数の要素の相互作用のもとにあるーを通じて、われわれは意識のための場所を確保することができる。むしろ意志の概念を斥けることによってこそ、意識の役割を正当に評価することができる。

 

<まだ、続きます>

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)