中動態の世界 意志と責任の考古学

スピノザは、にもかかわらずなぜわれわれは、「行為は意志を原因とする」と思ってしまうのか、と問うことを怠らない。

 

結果であるはずの意志を原因と取り違えてしまう。そのことを知っていたとしても、そう感じてしまう。「われわれが意志の表れを感じる以前に脳は活動を開始しているのだよ」などと訳知り顔で語る学者もそう感じているし、それを教わった人もそう感じ続ける。

 

「私が自分の手をあげる」とき、私の手があがる。ここに一つの問題が現れる。私が自分の手をあげるという事実から、私の手があがるという事実を差し引いたとき、そこに残るのはいったい何か?

 

そこでは(能動態と中動態の対立においては)主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない。

 

実在する一切のものには、その原因の一つとしての可能態が先行しているはずだ、という見解は、暗々裏に未来を、真正な時制とすることを否定している。すなわち未来は過去の帰結以外のなにものでもない。このような事情の下では、記憶が過去のための器官であるような具合で、意志を未来のための器官とする考えはまったく不必要なものだった。アリストテレスは意志の実在を認識する必要がなかった。つまりギリシア人は、われわれが「行動の原動力」だと考えているものについての「言葉さえもっていない」のだ。

 

言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。

 

このような選択と区別されるべきものとしての意志とは何か?それは過去からの帰結としてある選択の脇に突然現れて、無理やりにそれを過去から切り離そうとする概念である。しかもこの概念は自然とそこに現れてくるのではない。それは呼び出される。

 

意志という絶対的な始まりを想定せずとも、選択という概念ー過去からの帰結であり、また無数の要素の相互作用のもとにあるーを通じて、われわれは意識のための場所を確保することができる。むしろ意志の概念を斥けることによってこそ、意識の役割を正当に評価することができる。

 

<まだ、続きます>

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

 

ビートたけしと北野武

たけしの俳優歴を総括して≪およそ暖衣飽食とは縁のないところで世界を挫折と裏切りを通して認識した男、というのが、彼の演じる役柄の最大公約数である≫と評した。

文芸評論家の江藤淳は≪「成熟」するとはなにかを獲得することではなくて、喪失を確認すること≫と書いたが、たけしの場合も、精神的な成熟の過程で自らの手により母を「喪失」したのである。

中流を気取って、物ごとそれでいいんだと思ってるやるらくらい、腹立たしいものはない≫

「だいじょうぶですか」って手を添えたときに、初めて差別は始まると思ってる。だからたとえば、「おまえ、びっこだけどこの川を飛んでみろ」といった瞬間に差別がなくなる、少なくとも、なくなる可能性が生まれる。でも、そいつは川に落ちる代わりに、「なんだてめえは貧乏じゃねぇか」っていってるときに友達だと思ってる。(中略)そいつはすごい金持ちなんです、また。

オレは自分の生き方や芸事に自信がないけど、軍団がまわりにいるからなんとか格好をつけようと思っている。それと同じで千石のおっさんも女の子たちに囲まれて必死になっているんじゃないか。親近感を覚えるね。まわりに人をもつことで、人間それらしくなっていくんだ。ヤクザの親分だって、親分らしい貫録を見せているけど、最初はみんなチンピラだったんだもの。ポジションが人を作るんだよ。当人がもがくのをやめたらだけどね。

「結局わかりませんでした」とは、わからないからこそ思考停止せず、考え続けなければならないという決意表明にもとれる。

バカは死ななきゃ治らない。映画にしろ何にしろ、いい加減なものしかやれないだろう。前へではなく、横へ横へと悪あがきしていくしかないようだ。

日本の庶民が、独裁主義に直接抵抗する西欧的態度とは異なり、対立を避けがちなのも≪あらゆるものを、はかないという刹那感と、同化と寛容という能力の中に丸め込む能力をもっている≫からだと中上は説明する。

芸術家と経営者、わけても在韓人とは両立しないのである。もっと言えば両立してはいけないのである。

 

 

ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)
 

 

 

反脆弱性(上)不確実な世界を生き延びる唯一の考え方

私が唯一従っている現代の格言は、ジョージ・サンタヤーナのものだ。「人間は、妥協のない誠意をもって世界を判断し、ほかの人々を判断してこそ、道徳的に自由といえる」。

「心的外傷後成長」という現象を教えてくれた。これは心的外傷後ストレス障害とは逆で、過去の出来事で心に傷を負った人々が、それまでの自分より強くなるという現象だ。

私は、イノベーションや洗練というものは、最初は必要に迫られて生まれると思っている。いや、そう確信している。最初の発明や何かを作ろうという努力が思ってもみない副作用をもたらし、必要を満たす以上の大きなイノベーションや洗練へとつながっていく。

もちろん、古代の思想にも同じような考えがある。ラテン語には、「洗練は飢えから生まれる」ということわざがあるし、古典文学にも同じような考えが見られる。オウィディウスの作品には、「困難が才能を呼び覚ます」という言葉ある。

過剰補償のメカニズムは、もっとも意外な場所に火村営る。飛行機で大陸間を移動してくたくたになったら、休みよりも、ジムで少し運動したほうがいい。また、こんな有名な裏技もある。大急ぎでしなきゃならない仕事があるときには、会社でいちばん(または2番目に)忙しい人に頼むのがいい。ほとんどの人は、暇な時間を無駄にしてしまう。暇な時間があると、人は機能が低下し、怠け、やる気をなくするからだ。忙しくなると、ほかの仕事もがむしゃらにこなすようになる。これも過剰補償の一例だ。

私の友人のチャドが恩恵を受けたような混乱は、「観光客化」という現代病のせいでますます珍しくなっている。この単語は私の造語であり、人間を機械的で天順な反応を返す、詳しいマニュアルつきの洗濯機のものとして扱う、現代生活の一つの側面を指している。観光客化は、物事から不確実性やランダム性を体系的にうまい、ほんの些細な点まで予測可能にしようとする。すべては快適性、利便性、効率性のためだ。

「(有害性の)証拠がないこと」を「(有害性が)ないことの証拠」と勘違いしてしまうことだ。

マキャヴェッリはこう室している。殺人や内戦のさなかで、我らが国は強くなり、市民は徳を身につけた。少々の混乱は人々の糧になる。そして、種を反映させるのは平和ではなく、自由なのである」

システムにランダム・ノイズを注入し、その働きを向上させるという考えは、いろんな分野で応用されている。たとえば、「確率共鳴」と呼ばれるメカニズムでは、ランダム・ノイズを背景を加えると、音(音楽など)をよりクリアに聴くことができる。

①脆さや反脆さを見極めるのは、事象の構造を予測したり理解したりするよりもずっと簡単だ。したがって、私たちがしなければならないのは、予測ミスによる損失を最小化し、利得を最大化する方法を考えることだけだ。つまり、私たちが間違いを犯しても崩壊しない(さらには崩壊を逆手に取るような)システムを築くことが大事だ。

②差し当たっては世界を変えようと思ってはいけない。私たちがすべきなのは、問題や予測ミスに対して頑健な(さらにはミスを逆手に取るような)システムを作り、レモンでレモネードを作ることだ。

③レモネードといえば、レモンからレモネードを作るのが歴史の役目のようだ。反脆さとは、あらゆるストレスの生みの親である時の流れのもとで、物事が前進していく仕組みなのである。

 

 

 

 

 

 

Airbnb Story

チェスキーはほかの起業家にずっとこの作戦を勧めている。「ローンチしてだれも気付いてくれなかったら、何度でもローンチすればいい。ローンチして、誰も気付いてくれなかったら、何度でもローンチすればいい。ローンチしたら、そのたびに記事にしてくれるから」

この経験からチェスキーが学んだのは、コンセンサスで決定するなということだ。「危機のときコンセンサスで決めると、中途半端な決定になる。それはたいてい最悪の決断だ。危機のときには、右か左かに決めるべきなんだ」

考え方をひとつ上のレベルに持っていくことを、「ゼロをひとつ加える」と呼ぶようになった。

「20年前の旅行者の望みは、清潔で驚きのない部屋だった」マリオット・インターナショナルのアーネ・ソレンセンCEOは、2016年初めにカンファレンスの壇上でそう語った。・・・(中略)・・・今の旅行者が求めるものは違う、とソレンセンは言う。「エジプトのカイロで目覚めたら、カイロにいる実感がほしい。アメリカの田舎と同じ部屋で目覚めたくないからね」

多くの旅行者は、特にミレニアル世代は、旅行体験に不完全な本物らしさを求めている。・・・(中略)・・・どんな形であれ、その体験はいつもと違っていて、本物で、独特ななにかだ。それが、没個性的になっていた旅行に、行き過ぎるほどの個性を与えてくれた。

ホテル業界はエアビーアンドビーの原動力となったユーザー層を取り込むため、自分たちを「金太郎あめではない」存在として売り込もうとしている。最新のロイヤル・カリビアンの広告コピーは、「ガイドブックにない旅」だし、シャングリラホテルは消費者に「退屈を忘れよう」と呼びかける。

学んだことを共有しなければ気が済まないのもチェスキーの特徴だ。バフェットと会ったあとに4000字のメールをスタッフに宛てて書くようなことも珍しくない。2015年以来、ほぼ毎週日曜の夜にチェスキーは全社員に向けて、自分が学んだこと、今考えていること、伝えたい原則などを書き送っている。「大企業の経営者は講演や著述に優れていなければならない。それが経営ツールになるからね。起業したての頃は4任で台所に集まる程度だったけど、今はそうじゃない」。チェスキーが初めのころに社員に出した3連の覚書のひとつは、「学び」についてだった。

「社員がみんな疲れ切って、しばらく家族にも会えなくて、休みが必要な時に、もう一段上のレベルで働いてもらうにはどうしたらいい?『疲れているのはわかるけど、あと10倍がんばって』っていうわけ?」

その答えをくれたのは、「情報源」のひとり、セールスフォース・ドットコムのマーク・ベニオフだった。もっとがんばれとは言えないが「考え方をアップレベルしてほしい」と頼むことができる。(「アップレベル」はチェスキー語で一段階上げるという意味だ。「スキップレベル」とは、社内のいろいろな階層のさまざまな人と話すこと。「ステップチェンジ」は反復的なアプローチではなく新しい思考法のことだ)

「80パーセントでいい」という言葉だ。「それまでの僕は、80パーセントじゃ落ち着いていられなかった」とゲビアは言う。そのうち、会議のときやだれかと顔を合わせると、ゲビアはこう聴くようになっていった。「わるい知らせは何かな?」

それは、「象、死んだ魚、嘔吐」という、難しい会話を促すためのツールだ。「象」とは、口に出さないけれど全員が知っている真実。「死んだ魚」とは、早くゴメンナサイをしたほうがいい悩みの種のことで、これを放っておくとますます事が悪化する。「嘔吐」とは、人々が断罪されずに、思い切り胸のつかえを吐き出してしまうことだ。

「継続企業はみんなそうでなくちゃならない。テクノロジー企業なら、最初の発明をずっと先まで売り続けられるわけはないから」

エアビーアンドビーにとっての次のプロダクトとは、宿泊以外の旅行のすべてだった。

 

 

 

ピクサー流 創造するちから

会議

・会議は120%の集中で臨む

・会議は関係性や役職に関係なく発言する

 

会社

・会社は自分たちのものだ。もっと自分たちで決めていけばいい。

 

制作プロセス

・第一の原則は、「物語が一番偉い(Story is King)」

・第二の原則は、「プロセスを信じよ(Trust the Process)」

・ブレイントラスト会議

ピクサーには、制作中の作品に対して、専門家が集まり、意見する会議がある。

 

ピクサーが集合的な思考の意識転換を図るために使用しているいくつかのメカニズム

1.全員で問題解決

2.現地調査でつかむ本物感

3.制約の力

4.テクノロジーとアートの融合

5.短編で実験する

6.観察力を養う

7.反省会

8.学び続ける

 

 

巻末付録にある至言

複雑な概念を簡単なスローガン風にまとめると、「分かったような幻想」を抱かせ、その力を弱める危険があることは承知している。繰り返す価値のある格言は、すでに半ば意味を失っている。結局、口にはしやすいが、行動に結びつかないただの言葉になる。

 これは常に胸に。

 

 

以下、引用。

ピクサーの創造的プロセスにとって、率直さほど重要なものはない。それはどの映画も、つくり始めは目も当てられないほどの「駄作」だからだ。「駄作」を面白くすることがブレイントラスト会議の仕事だ。

本音で語れる環境こそ、いいものをつくる唯一の方法 

率直さは残酷ではない。何も壊さない。反対にフィードバック制度は、自分自身も経験しているからその痛みを理解できるという共感、全員の当事者意識のうえに構築すべきだ。自尊心を満足させたいという欲求、功績を認めてもらいたいという欲求、そうした感情を持ち込ませないよう努力している。批評の目的はただ一つ、助け合い、支え合うことによってよりよい映画を作ることだ。ブレイントラストはその考え方に基づいて成り立っている

監督は、提案や助言に従う必要はない。ブレイントラスト会議後、フィードバックにどのように対処するかは監督に任されている。

美術的な技巧を凝らそうと、物語がきちんとさえしていれば、視覚的に洗練されているかどうかなど問題にならないのだ 

無知と旺盛な成功欲求の組み合わせ以外に、短期間での学習を促すものはない 

イデアをきちんと形にするには、第一に良いチームを用意する必要がある。優秀な人材を揃えよというのは簡単だし、実際に必要なのだが、本当に重要なのはそうした人同士の相互作用だ。どんなに頭のいい人たちのチームでも、相性が悪ければ無能なチームになる。したがって、チームを構成する個人の才能ではなく、チームとしてのパフォーマンスに注目したほうがいい。当たり前のように聞こえるかもしれないが、私の経験から言って、決して当たり前ではない、重要な原則がある。いいアイデアよりも、適切な人材と適切な化学反応を得ることの方が重要なのだ 

品質は最良のビジネスプランである。品質は日常の一部であり、考え方であり、生き方であるべきだ

メンバー全員が人知れぬ個人的な意図ではなく、純粋に目の前の作品に集中していた。言い争いはしょっちゅうで、ときに白熱もしたが、つねにプロジェクトのことでだった。自分のアイデアだと言い張ったり、上司を喜ばせたり、得点を稼いだりといった職場にありがちな水面下のやりとりにはまったく興味がなかった。メンバーは互いを同等の仲間だと見なしていた。ブレイントラスト会議で、相手がヒートアップしても、それは問題解決に向けた熱意の表われであり、自分に向けられた感情ではないことを誰もがわかっていた。そうした互いへの敬意や信頼関係のおかげで、彼らは凄まじい問題解決能力を発揮した

計画を立てるのは大事なことで、ピクサーでもしているが、クリエイティブな環境でコントロールできる範囲は限られる。一般的に言って、やり方を考えることにエネルギーを注ぎ、行動に写すのは早すぎると言っている人は、何も考えずにどんどん進める人と同じくらいの頻度で失敗している。計画が入念すぎる人は、失敗するまでに人より時間がかかる

効率化や増産が究極の目標に取って代わり、それを社員が正しいと思い込めば会社は破綻する。・・・このような考え方では、想定内の独創性のない作品しか生まれない

映画のアイデアであれ、インターンシップ制度であれ、新しい物事を始めるのには保護期間が必要だ。いつもと同じ仕事には必要ない。確立されたアイデアや仕事のやり方を守るのに努力はいらない。既得権者が得をするようにできている。それに挑む者が足がかりを得るにはサポートが必要だ。過去ではなく未来の新しいものを保護するには意識的な努力が不可欠だ

いいアイデアは、ふざけて冗談を言い合ったりする中で生まれることが多いんですが、自分が許可しなければそういう空気は生まれません。Youtubeで動画を見たり、週末の出来事を報告しあったりするのは時間の無駄のように思えるかもしれませんが、長い目で見ると非常に生産的なんです。創造性のことを『関係のない概念やアイデア同士の予期せぬ組み合わせ』と言った人がいましたが、それが本当なら、その組み合わせが生まれる精神状態があるはずです。だから行き詰ったと感じた時は、いったん全てを止めて、僕もチームもほかに目を向けて、しばらくしてムードが変わったら再度問題にタックルします

 

 

 

ピクサー流 創造するちから―小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法

ピクサー流 創造するちから―小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法

 

 

 

プロフェッショナルマネジャー 付録「創意」と「結果」7つの法則 柳井正

経営者の中には、努力すれば成果はついてくると単純に思われている方、一つずつ課題を解決する努力を積み上げていけば結論が出ると言われる方が非常に多い。僕も昔はそうだった。

だが、努力しても、その方向性が間違っていたら結論は得られない。一歩一歩積み上げてやっても、10回繰り返せば、10歩だけ歩んだことになるが、目指すべき目標が何かの結論は見えてこない。何かを実行しようと思ったら、最終的な目的や目標を最初に明示しない限り、行動は起こせない。 

「本を読む時は、初めから終わりへと読む。ビジネスの経営はそれと逆だ。終わりからはじめて、そこへ到達するためにできる限りのことをやるのだ。」

僕は、基本的に、誰も経験していない成功のノウハウは、ほとんどありえないと思っている。他企業や他産業にできたことは、我々にもできると信じてる。 

失敗の原因は、「3年間で50店舗」という言葉が一人歩きし、まず1店舗から儲けを出すことを基本に、儲かる仕組みを徐々に拡大す流という基本を怠ったことにある。ジェニーン氏は、「経営の秘訣」の賞で「最初の四半期に目標を達成できなかったら、年間の目標も達成できない」と書き、「現四半期はダメでも、年度末までに決まりをつけるさ」と行った態度を厳しくいさめている。  

僕は1億円の商売と10億円の商売は違うし、100億円の商売もやり方が違ってくると思っている。だから、経営トップが組織図を書くという作業をやり続けないと、組織は硬直化してしまう。組織ができあがると、組織の論理が優先され、変化を求めず、安逸を貪ろうとする。それが楽だからだ。

これを打破するには、組織は仕事をするためにあり、組織のために仕事をするのではないということを決定的に知らしめる必要がある。それは、絶えざる組織改革であり、現実に即した柔軟な人材の異動を行うことだ。僕は、組織図は毎日でも変えたいと思っている。 

ノー・サプライズ経営のための必須要件として、ジェニーン氏は「プロフェッショナル・マネジメント」という最高の芸術は、"本当の事実"をそれ以外のものから"嗅ぎ分ける"能力と、さらには現在自分の手元にあるものが、"揺るがすことができない事実"であることを確認するひたむきさと、知的好奇心と、根性と、必要な場合には無作法さもそなえていることを要求する」と指摘した。

彼は事実には、"揺るがすことができない事実"以外にも、4つの事実があると書く。"表面的な事実(一見事実と見える事柄)"と"仮定的事実(事実と見なされていること)"、"報告された事実(事実として報告されたこと)"、"希望的事実(願わくば事実であってほしい事柄)"である。 

「会社と統率する人間は、その会社の人びとが本当は彼のために働いているのではないということを認識しなくてはいけない。彼らは彼と一緒に自分自身のために働いているのだ。彼らはそれぞれの自分の夢を、自己達成への要求を持っている」 

「私が反対知るのは、きれいな机のエグゼクティブのオフィスの様子とか机の上の状態よりむしろ、彼の心的態度に対してである。きれいな机は科学的経営への、ビジネス・スクール仕立ての方式への、データの整理保存への、過度に厳格な時間配分への、機構化した権限移譲への、そしてまた未来が自分のプラン通りのものを生み出すというあてにならない確信に基づいた無保証の地震と独りよがりへの固執を象徴している。そんなものを、夢にも信じてはならない」 

「(エゴチスム)の真の害悪は(中略)抑制されない個人的虚栄心が高進すると、その本人が自分自身のエゴの餌食になってしまうことだ。彼はやがて自分自身が行った新聞発表や、部下のPRマンが彼のためにこしらえた賛辞を信じ込むようになる、そして自分自身と虚栄心の中にのめり込んで、他人の感情への感受性を失ってしまう。常識も客観性も失われる。そして、意思決定の過程を脅かす厄介者となる。」 

僕は夜の会合やパーティを遠慮させてもらっている。僕はずっと失敗を続けてきたが、確実に一勝は挙げた。それでも「ずっと失敗を続けてきた」という思いのほうが僕にとっては強い体。僕がやるべきことは、まだ本業に専念することだ。 

「ビジネスにおいて修復不可能の失敗は、キャッシュが尽きてしまうことである。それ以外なら、ほとんどどんな失敗でもなんとか回復の道がある。しかし、キャッシュが尽きてしまったらゲームはそれで終わりだ」

 

プロフェッショナルマネジャー

プロフェッショナルマネジャー

 

 

偶然と必然の方程式

多くの分野において、経験のある人が自分を専門家だと考えているが、両者には違いがあり、専門家のモデルは予測に使えるが、経験のある人のモデルは予測に使えるとは限らない。

多くの企業経営者、他社の成功例を参考にして業績を向上しようとする。だから、成功事例を紹介する本が数多く出版されているのだ。残念ながら、成功事例に学ぶという手法には本質的に問題がある。成功した会社の多くは運が良かっただけで、その成功から信頼に足る教訓を学べることが少ないのだ。 

人の心は、身の回りの世界を説明する物語を作り出す能力を備えている。この能力は、あらかじめ答えを知っているときに特によく働く。なぜなら、人間は物語が大好きなうえに、原因と結果を結びつけることが得意だからだ。そのため、過去の出来事が不可避だったと思い込み、ほかのことが起きていたかもしれないという可能性を過小評価するのである。 

ギャディスによると、未来は実力と運が独立して共存している領域だ。様々な出来事が起きるかもしれないが、実際にはそのうちの一つしか起きない。その様々な可能性はじょうごを通って現在に降りてきて、そこで実力と運が融合して起きることがすべて決まる。様々な可能性が一つの出来事に絞り込まれることこそ、歴史が作られる過程なのだ。

我々は小さすぎるサンプルから結論を引き出そうとする誤りを犯す。ある出来事につながった可能性のある要因をくまなく検討することを怠っている。逆に、調べすぎることによって誤りを犯すこともある。調べすぎて、偶然の結果に過ぎないところに原因を見出そうとする。あるいは、目覚ましい成功が卓越した個人の実力によるものだと思い込み、その個人が属している組織が及ぼす影響を軽視しがちだ。

芸術の革新者には二つのタイプがあり、それぞれが異なる時期にピークを迎える。”概念の革新者”タイプは、他の芸術家と異なる斬新な作品を生み出す。政策を始める前に周到な準備をするものの、過去にはあまりとらわれず、「特定の考えや感情を伝えたいという欲求」を優先する。典型例はパブロ・ピカソだと、ゲイリンソンは指摘する。ピカソの生産性のピークは26歳のときに訪れ、その時期の作品が最も評価が高い。

一方、”実験的革新者”タイプは多くの研究を行い、知識を蓄え、ゆっくりとした漸進的な進展を測る。自分の最後の作品に満足せず、いつも改良の余地があると考えている。ゲイリンソンによれば、典型的な”実験的革新者”はポール・セザンヌだ。セザンヌは「こんなに長い間努力を重ねてきたというのに、完成するのはいつになるのだろうか?」と問いかけているという。セザンヌの生産性のピークは67歳の時に訪れた。ピカソと同様、セザンヌの晩年の絵画は全作品の中で最も評価が高い。

斬新な創造が生まれるのは若手で、熟練の技術が花開くのは壮年というのは、流動性知能と結晶性知能のパターンとよく一致している。

流動性知能は一度も見たことがない問題を解く能力で、学んだことに依存しない。結晶性知能は学習によって蓄えられた知識を用いる能力だ。

人間の実力は年齢とともに低下するが、組織も同じだ。優れたスポーツチームは、並外れた能力をもつ選手の集合体である。たとえ、成功が長続きしたとしても、選手が歳をとるにつれて、チームの実力も低下していく。そのため、チームの運営者は効率よく選手を入れ替えなければいけない。ベテラン選手を若い選手と入れ替えるのは、簡単なことではない。ベテラン選手は成績に見合った報酬を得ていることが多いので、価値を判断しやすいが、若い選手は評価するのが難しい。つまり、スポーツチームの運営者はよくわかっている選手をよくわからない選手と交換しなければならないのだ。 

次に起こることがその前に起きたことに依存することを「経路依存過程」と呼ぶ。記憶する過程と言い換えてもい。経路依存過程では、初期条件のわずかな違いが最終結果に重大な影響を与える。例えば、金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏になるといった現象をもたらす。

役に立つ統計とは、時間の経過に対して、持続性があり、予測可能性が高い。 

我々のチームは信頼性の高いデータの収集こそが、迷信と科学を、期待と現実を区別するものだということを、経験から学んできた。質を改善することが科学であり、科学の実験は正確なデータを必要とする。正確なデータは、質の高いフィードバックの基礎となるのだ。

人間は、時間をかけて自分の誤りを検証することを避けようとする。しかし、誤りを検証すれば、その誤りを防ぐためのチェックリストを作れるはずだ。チェックリストを採用することは、謙虚になり、自分が誤りを犯しやすいことを認めることだ。

成功が確率的であるときはプロセスを重視する。

勝ち目があるならゲームを単純にせよ。勝ち目がないならゲームを複雑にせよ。

非対称の戦いで敗れた国の80%近くが、同じ戦略に固執していた。一旦、ある戦略のために莫大な予算が投じられると、別の戦略に切り替えるのが難しくなるのだろう。また、指導者の考え方や組織の慣習が、新しい戦略を採用するうえでの妨げとなるのかもしれない。この種の硬直状態が生じるために、最高の勝率をもたらす戦略を追求できないのだ。

運を変える方法はないのだから、自分が相手より強いか弱いかという状況に応じて、実力の重要性を増減させるしかない。

 

 

偶然と必然の方程式 仕事に役立つデータサイエンス入門

偶然と必然の方程式 仕事に役立つデータサイエンス入門