ビートたけしと北野武

たけしの俳優歴を総括して≪およそ暖衣飽食とは縁のないところで世界を挫折と裏切りを通して認識した男、というのが、彼の演じる役柄の最大公約数である≫と評した。

文芸評論家の江藤淳は≪「成熟」するとはなにかを獲得することではなくて、喪失を確認すること≫と書いたが、たけしの場合も、精神的な成熟の過程で自らの手により母を「喪失」したのである。

中流を気取って、物ごとそれでいいんだと思ってるやるらくらい、腹立たしいものはない≫

「だいじょうぶですか」って手を添えたときに、初めて差別は始まると思ってる。だからたとえば、「おまえ、びっこだけどこの川を飛んでみろ」といった瞬間に差別がなくなる、少なくとも、なくなる可能性が生まれる。でも、そいつは川に落ちる代わりに、「なんだてめえは貧乏じゃねぇか」っていってるときに友達だと思ってる。(中略)そいつはすごい金持ちなんです、また。

オレは自分の生き方や芸事に自信がないけど、軍団がまわりにいるからなんとか格好をつけようと思っている。それと同じで千石のおっさんも女の子たちに囲まれて必死になっているんじゃないか。親近感を覚えるね。まわりに人をもつことで、人間それらしくなっていくんだ。ヤクザの親分だって、親分らしい貫録を見せているけど、最初はみんなチンピラだったんだもの。ポジションが人を作るんだよ。当人がもがくのをやめたらだけどね。

「結局わかりませんでした」とは、わからないからこそ思考停止せず、考え続けなければならないという決意表明にもとれる。

バカは死ななきゃ治らない。映画にしろ何にしろ、いい加減なものしかやれないだろう。前へではなく、横へ横へと悪あがきしていくしかないようだ。

日本の庶民が、独裁主義に直接抵抗する西欧的態度とは異なり、対立を避けがちなのも≪あらゆるものを、はかないという刹那感と、同化と寛容という能力の中に丸め込む能力をもっている≫からだと中上は説明する。

芸術家と経営者、わけても在韓人とは両立しないのである。もっと言えば両立してはいけないのである。

 

 

ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)